中宮彰子の後宮で宮仕えした紫式部は、今風にいえば、出勤拒否あるいは出勤困難症(あるいは不出仕症)にかかったことは、よく知られていることだと思います。
夫なきあと家で源氏物語を書きつづけ、短期間で人気を博していましたので、藤原道長は、紫式部を迎えて、我が娘彰子の後宮を、優雅で知的な文化サロンにしたいと、長期の戦略を立てました。中宮彰子の後宮がそうなれば、ちゃきちゃきの才子、清少納言を擁して貴公子の関心を集めた中宮定子のかつての後宮のように、貴公子たちの間で彰子後宮の評判が高くなり、訪れる貴顕が多くなって華やぎ、一条帝の訪問も増え、皇太子誕生を期待できるのではないかと考えたのでしょう。
紫式部は、宮仕えを望んでいなかったようですが、勤めることにしました。道長に恩義があってと説明できないことはありませんが、恩義というより公正な人事をした道長に感ずるところあって、出仕を決意したのだと、私は思います。紫式部の父藤原為時は、漢学の学識は抜群でしたが、位階はあるものの官職がない「散位」という経済的に苦しいポスト在職が10年も続いていました。そのときに、実力を買って、大国の越前守に登用してくれたのです。それも一旦は、乳母子の藤原国盛が任命されていたのを辞退させるという大きな無理を敢えておかして、いわば「身内」に厳しく、実力主義を断行してくれたわけです。 出仕すると、後宮には、御殿勤めになれた実務に精通していることをよりどころとするプロの女房集団がいます。後宮には、それ以外に、もともとはお嬢様だったけれど、いろいろな事情で女房として生きていくことになり、消極的で、知的で風雅なことへの反応の鈍く成長意欲の感じられない女性集団もいます。そこへ、物思いに沈潜し、人の世を憂しと感ずる、知的で、大変有名な才媛が加わります。女房集団が警戒するのは当然でしょう。ですから、紫式部のような人が、今でいう出勤困難症になって不思議はないでしょう。 彼女は家に引きこもりました。それは、5ヶ月以上続きましたが、結局は、職場に復帰しました。そして、その後は、後輩を引き立て、後輩が宮中で活躍できるきっかけをつくったり、後宮のあるべき状態について論じたりするようになり、彰子後宮の盛名高からしめる上で大いに活躍するようになります。内裏に勤めるキャリアー女性として活躍し、道長の期待に応えたのです。
なぜ、そうなったのでしょうか。なぜ職場に復帰できたのでしょうか。現代でも一旦不登校や出勤困難症になり、家に引きこもった人が再び元の組織に復帰するのは大変難しいことです。それが、できたのは、経営学が専門の私からみれば、道長がすぐれた人事管理をしたからだろうと思います。紫式部が職場復帰できるように、道長が何をしたかは多くは分からないのですが、優れた人事管理をしたと推測できる話はあります。上で述べた乳母子国盛と彼女の父為時の人事は、実力主義とはいえかなり強引です。権力による恣意的な人事と感ずるむきもあるでしょう。しかし、私はそう思いません。もともと北陸道は大陸に面していますから漢学の実力者を任命する伝統がありましたし、国盛・為時の上の人事の前年9月には、隣国若狭に宋の商人朱仁聡が来着し、越前に滞在する話もあることから、漢学・漢詩の実力者がとくに必要だったといえます。平時ではなかったのです。したがって、一度任命した者を辞退させても実力者を任ずるということは英断ともいえます。しかし、国盛とその係累は大変なショックをうけました。これに対して、道長は、辞退させた国盛には、秋の人事における播磨守への補任で応えています。播磨は気候温暖で産物も豊かでかつ都に近いので、三大人気ポストです。越前守を辞退させるときには、腹づもりの人事を漏らすわけにはいかないでしょうが、道長が配慮の行き届いた管理者であることを十分理解できる事例の一つだと思います。
また、紫式部は、人の優れた点を見つけ評価し、いい働きを引き出してそれをほめる道長を書きとどめています(池田亀鑑・秋山虔校注『紫式部日記』岩波文庫、8-10ページ)。ですから、職場復帰の誘いを道長がしたとすれば、彰子後宮を、紫式部に勤めやすい職場にするようにはかってくれるはずだと思えただろうと考えてもいいのではないでしょうか。そして、復帰後まもなく、寛弘5年(1008年)には、伊勢大輔が出仕しますから、才芸で彰子後宮に勤務する人が、複数になり、さらに、和泉式部も加わります。才知文芸が故に後宮勤めする女性が増え、即興の和歌で、1000年後の現代までつたわるほど有名な風雅なエピソードがいくつも生まれ、貴公子社会をわかせます(伊勢大輔の興福寺の八重桜、小式部内侍と藤原定頼との間で生まれた「大江山いくのの道の・・・」の和歌など)。 もともと、中宮彰子は、紫式部の才能を高く評価していますし、源氏物語の作者と親しくできることを嬉しく思っています。それだけでなく、自分から申し出て紫式部に漢文を習います。また、一条帝のために、源氏物語の新本をつくっています。
紫式部は、中宮彰子に魅了されていきます。彰子は、藤原道長という時の最高権力者のお嬢様で、時の天皇の中宮となった至上の貴人です。美しく着飾り、最高の豊かな生活をしていますから、外からは幸せに見えますが、その一生は家の栄華のためにあることを運命づけられ、わずか12才で入内させられたのです。しかも、天皇には最愛の中宮定子があり、定子がなくなられたあとは、その妹を愛され、中宮でありますのに彰子のところへは、あまりお越しにならない。内心を思いやれば、苦しく、辛いことが多く、悩みも深いことでしょう。そして、ようやく懐妊されましたが、今度は、男子を産まなければならないという重圧のなかで自己抑制的に生きておられます。身重で辛いのでしょうがそれをさりげなく隠しておられる、これに感動した紫式部は、辛い人生を生きていくには「求めてでもこうした方に仕えていくべきなのだ」と思います。そして、「そんな風に思うようになる自分を不思議だと思う」と書きながら、そしてやはり、人生を憂しと思いながら、健気な中宮彰子のために、後宮を盛り上げていかなければと思うようになります。
源氏物語の作者・文学者としてとは別に、勤め人として、平安時代のキャリアー女性の誕生です。 紫式部のその後の働きぶりについては機会をみて考えてみたいと思います。

